2011年01月01日

2011年を迎える。

家族4人無事に2011年を迎えました。

家族旅行からなんだかいろいろで、あっという間に時間だけが過ぎて、
そして何からどのタイミングで書き始めようかと考えているうちに
2011年になってしまいました。


家族旅行から、まもなく探していた家もちょっぴり予算オーバーしながらも、
7月末に無事に引越しをしました。


そして引越して2日後にあやうく不審者に侵入されさそうになり・・・。
ニュージーランドに来て初めて警察に電話をかけました。
鍵をしっかりかけて寝ていたので、もちろん大丈夫だったんですけどね。
PinotくんとNoirちゃんもしっかり吠えてくれましたしね。


父がもう一度遊びに来たいって言ってたので、お友達も一緒に来れるようにと、
広めの家に無事に引越しはしたんだけど、8月早々に父が再入院してしまい、
なんとか元気に退院してもらってと家族みんなの思いはあったんだけど、
症状が悪化していく一方で、一時帰国した方がいいと先生に言われ、
お見舞いに帰る事に。

予定では10月のママの誕生日に合わせて帰国する予定にしてたので、
急に帰国するとよっぽど悪いのかと父が心配すると思い、
ニュージーランドの父の日に合わせて、職場のみんなが父の日のプレゼントに
休みをくれて急に帰ってきたことに・・・とかいろいろ職場のみんなと
相談しながら休みを決めてたんだけど・・・。

そんな帰国を前にした日にマグニチュード7.1という大地震に遭い、
結局、慌てて緊急脱出してきた事にして、日本へ帰りました。

余震も続いてたので、PinotくんとNoirちゃんをおいて、日本に行くのは心配だったんだけど、
父の治療で強い抗がん剤を使っていくとの事で、先に話ができなくなってきたり、
目が見えにくくなったりするそうで、一度話ができるうちに帰って方がと先生が
言ってくれたので、そのまま予定通り帰国しました。


母には、覚悟して会わないとかなり痩せてしまってると言われて、
私はとにかく、元気に会うと心に決めて帰国したんだけど・・・。

想像以上に痩せてしまっていた父を前に笑顔で地震の話をするのは
とてもつらい事でした。
いつもだったら、表情豊かな父が話をしてもあまり抑揚がなく、
表情もあまり変わらず、なんとも言えない状況でした。

父には経由先のシンガポールから電話をしてサプライズ帰国で少しでも元気になって
もらえたらと思っていましたが、そんな私の思ってた状況でもありませんでした。


母が空港まで迎えに来てくれて、そのまま病院に直行して、
先生もその日にすぐに病状説明の時間を取ってくださって、
父の今の状況を詳しく説明してくれました。
職場の上司も、同僚もみんなこんな状況だから戻ってくる日は日本に帰ってから
連絡してくれればいいからと、心配せずにゆっくり帰っておいでとあたたかい
言葉をもらい、こちらに戻る日は保留で帰国していたので、先生との話でも
相談はしたものの、8月の入院の時点では年内か、年越せるか?という
状況だったんですが、私が帰国した時点ではさらに状況は悪化していました。


父は前立腺癌だったんですが、私が2002年にワーキングホリディでニュージーランドに
来てすぐに心筋梗塞で倒れて、そのときの入院で癌があることを聞かされていました。
家族で父には告知しないで治療をしてもらうことを決め、その時に覚悟は
していたんだんだけど、ずっと元気でいてくれたし、3年前にはニュージーランドにも
遊びにきてくれたし、治ってるんじゃ?と思うくらいでした。


でも、毎日朝から晩まで病院に通ってたら、素人の私にでもわかるくらいに、
毎日病状は悪化するばかりでした。
私が帰国してから父は、氷や水分を取るのがやっとでした。
食べることが大好きだった父が食事ができなくなってることが
どれだけつらいことか、それでも、少しでも食欲が出てくれればと
あえて、私も母も父の前で食事をしました。
それで少しでも、父が食欲を戻してくれたらと、父が好きそうな食事を選びました。


そして、帰国してから10日ほどした頃、抗がん剤で幻覚が聞こえたり、
見えるようになったりして、その2日後に亡くなりました。

前の日の夜、夜8時の面会時間終了前に話した最後の会話は、
「シロちゃんの面倒みといてね。」
でした。
実家で父が飼ってたパグMIXの事です。
父が入院して、母も父に付き添っていたので、なかなかシロちゃんのお世話が
できなかったみたいで、シロちゃんの皮膚病に気づかなかったみたいで、
私が戻ってから病院に連れて行ったり、お薬を飲ませたりしていました。
それを、父がすごく気にして、自分のせいでシロちゃんが病気になったと
毎日帰る前にはシロちゃんの話をしていました。

早朝に母からの電話で危篤との事、弟に電話して一緒に病院に駆けつけた時には
もう話が出来る状況ではありませんでした。

看護師さんたちに、声だけは最後まで聞こえますから話しかけてあげて下さいと
言われましたが、何も返事ができない父に話しかける事は酷な気がして
何を話しかけたらいいのか、頭はパニックでした。

目をあけてくれてるんだけど、呼吸が荒く、返事もできず、そして話しかける
声に反応してか、父の目から流れた涙はいまだに忘れることができません。
何をいいたかったのか?涙に何か後悔があったんじゃないか?
言葉のない返事ほど、難しいものはありませんでした。


弟が一度家に戻り、奥さんと娘連れて病院に戻った数分後に
父は息を引き取りました。
初孫の声を聞きながら父は逝ってしまいました。


それからの事はあまり覚えていません。

バタバタと葬儀の準備、親戚の連絡、私と弟がしっかりしないと
と、二人で手配をしましたが、まずどうやって父が亡くなってしまった
事を理解すればいいのかわかりませんでした。
毎日何度も父とはメールをしていたので、なんだか携帯を持って
逝ってくれたんじゃないかとおかしな事を真剣に思ったり、
いままで普通にメールしてたのに、どうしてもう父とメールが出来ないの?
って本当に理解できなかった。
送ったら届くんじゃないかと真剣に思ったり・・・。


母も看病生活で疲れていましたし、いつもどこへでも一緒にいた父が
居なくなった事実は、受け入れ難いものだったようでした。
毎日泣き続ける母に、何もしてあげられませんでした。


仕事の事もありましたが、そのまま職場のみんなの好意にあまえて、
四十九日法要を早めにすることにしたので、1ヶ月半ほど日本に滞在
しました。
ぴのちちもVISAを取って四十九日法要に間に合うように日本に来てくれて、
10日間ほど一緒に居て、父の遺骨を分骨して一緒にニュージーランドに
戻りました。


自分ひとりでは、どうしようもない時に、いろんな人が助けてくれて、
PinotくんとNoirちゃんは一緒に住んでくれてた友達が面倒を見てくれて、
Pocoくんのお母さんがお散歩に連れて行ってくれて、
離れた日本にいる私をぴのちちは毎日気遣い連絡をくれ、
FaceBookやメールで友達はあたたかいメッセージをくれて、
孤独感から本当に救われました。
感謝の気持ちでいっぱいでした。


そして、なんとかニュージーランドの生活に戻り、日常を取り戻し
つつあった所にまた大きい地震がきて、ショックでした。

地震の後の記憶がまたよみがえり、悲しいことが何かおこる
んじゃないかとか、余震の怖さと不安でいっぱいでした。

Norちゃんは、その後2日ほど震えていましたし、
今も続く余震の時には、いつもこたつの下に避難しています。
誰も教えてないのに、本能なんでしょうか・・・。


昨日は恒例(?)の紅白歌合戦をみんなで集まって楽しく見て、
一緒に年越しそばを食べての年越しだったんですが、
ふと母が1人でさみしく過ごしてるかと思うとなんだか
涙が出てしまって・・・。
去年は紅白見てるときに、父が大好きだった坂本冬美ちゃんが
歌ってるときに電話したのになぁとか・・・。

私の為に番組をたくさんやりくりして録画してくれてる母に、急いで帰って
電話して、少し話してから仕事に備えて寝ました。

来年は楽しく一緒に過ごせたらいいのになぁ。


2011年が穏やかに、そしてみんな健康で元気に暮らせますように。
そう、強く思うお正月でした。

また少しずついろいろ書いていこうと思います。

posted by ぴのまま at 20:31 | Comment(2) | つぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
色々大変だったよね・・。思い出したら涙が・・。今年のお正月は、複雑な感じで迎えているんだろうな・・。
おじちゃんは笑顔で過ごしてるみんなの姿が一番好きだと思うから、前向きに沈まないように明るくいこう!体には気をつけて、(地震もまだ油断できないね・・)すばらしい年になりますように。
Posted by イモティ at 2011年01月02日 03:06
本当に昨年はいっぱいいろいろあったよね。それでも時は過ぎていく。。。お父さんも最期は家族に見守れながらで幸せだったと思うよ。愛されてこの世界を立っていけるってすばらしいと思う。2011年は皆にとって心身ともに健康な1年でありますように。
Posted by ゆげ at 2011年01月02日 05:49
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